こーのファッキン野郎共!
今月ちっとも日記書いてねえじゃねえか!
ノー・マンズ・ランドという映画を見た。
ボスニアの映画で、ボスニア紛争を題材にしたブラックユーモア溢れるショッキングな反戦映画だ。
「この映画を見たらボスニア紛争について知りたくなるように作りたかった。」
という監督の思惑通り、まんまと俺はボスニア戦争をググッたのだ。
監督は「怒りからは何も生まれない。だから、’あの戦争は誰が悪い’って言いたくなかった」って言うんだ。
かっけーな。
でもレイジは「怒りはギフトだ!」って言うんだ。
こっちもかっけーな。
でもやっぱ本当の戦争体験者のメッセージっの方が強烈でかっけーな。
まーたお熱を出した。
ウチのスットコドッコイがまーたお熱を出した。
嫁グロッキーである。
オレもねみい。
桜の季節がやってきた。
といってもね、ウチの桜達は去年挿し木したばっかだからまだ花は咲かないのだが、芽が今にも開きそうな良い黄緑色になってきたよ。
うんうん、寒い冬をがんばったね。
いいこちゃんだなあ。
外に出しといたら瀕死になってしまった幸せの木はかろうじて生きている。
あったかくなるので持ち直してくれればいいが。。
久しぶりに映画を見た(と言ってもDVDだけどさ。)
「ハイドアンドシーク」
「まあいつもの事さ」と済ましてしまってもいいのだが、久しぶりなので色々つっこもうと思う。
思いっきりネタバレだから注意。
「デニーロパパにとってエイミーが作り出した架空の人物だと思われてたチャーリーが徐々に「実在」として感じられるようになり、チャーリーは隣人かと思いきや実はもう一人の自分だった。
しかも妻は自殺したと思っていたが、実はそれもチャーリーが殺したのだった。」
というのはもっともらしいストーリーで、映画をさらっと見る限り何の疑いもない筋書きだ。
しかしながら、最後のシーンでエイミーが描く絵において、エイミーの顔が二つ描かれ、それでこの映画は終わる。
更にこの映画のややこしいところは、2:06にデニーロパパの顔を撫でて起こす手の存在である。
このシーンはママの自殺の時からすでに登場している。
これを「実在」とするならば、エイミーとしか考えられない。
それを裏付けるかのように、都度必ずすぐにエイミーは現る。
これの意味するところは何か。
ママを殺した犯人がエイミーであるという事なのだろうか。
そうするとチャーリーは本当にデニーロなのか?という疑問が浮上する。
エイミーはしきりに「チャーリーがやった。」と事ある毎に言っている。
んがしかし、バスタブに「You let her DIE」と書いたはエイミーの字だとデニーロパパは言っている。「チャーリーに書かされた」ならいざしらず、
「何もしてない。」「チャーリーだ。」という。
更には、バスタブに窓から突き落とされた女の死体が入ってる際「Can you see now?」とシャワーカーテンに書かれていたが、その後でデニーロが自分が犯人だと気付くシーンの際、エイミーは「Can you see now Daddy?」と同じセリフで言う。
警官の死ぬ所を絵に描いちゃったりもすることからも、といういう事は、チャーリーはエイミーのもう一つの人格の事なのだろうか?
いや、確かにエイミーは一度もデニーロパパのもう一つの人格に向かって「チャーリー」とは呼ばないが、クローゼットに隠れている人物の事をはっきりチャーリーと言った。
それに「チャーリーはママのように楽しい」というようなセリフも登場することから、チャーリーはデニーロパパであり、当初母親の代わりとしてエイミーの前に現われ、二人は楽しく遊んでいた。ってのが自然な解釈ってもんだろう。
結局話しがよくわからなくなってきた。
意味がありそうで分からない細かいところもある。
デニーロパパの写真を破ったのは誰か。
なんの為に破いたか。
人形の顔を潰したのは誰か。なぜか。
人形とオルゴールが洞窟にあったのはなぜか。
多分この辺が隠れたストーリーを一本化するヒントだと思うのだが、サッパリわからんのだ。
もう何度か見ればわかるのかもしれないが、面倒である。
誰か推理を頼むー。
あんま重要じゃないけどもう一つ疑問。
隣人は何を言い争っていたのか。「夫があんな事まで・・。」という「あんな事」って何だろうか。
まあそういうのもひっくるめて
「なんとなく意味ありげな方がいいじゃん。」
ってノリで無駄に意味深に作ってあるだけって可能性もあるが、まあそこは騙されていこうじゃないか。